作曲

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最近、無調性の音楽を聴いたり書いたりしていました。

その狭間は歴史的経緯にしろ技法的にしろ、作品にしろ、極めて微妙な場所にあります。

いや、むしろ無調性ですら結局は調性に支配されている気がします。

人間が、物質が地球の重力に支配されているように、調性の圧倒的な支配力を再認識するだけです。

作曲とは自分の内なる響きに耳を傾けることである。

それは自分の今までの経験や感情、喜怒哀楽の深さにより姿を変える。


作曲に限らず、演奏においても結局は楽譜から聴こえる内なる響きを、声や楽器を使って現実の音にする行為に他なりません。


内なる響きは、すなわち具体的な感情、経験、そして人生…。


生とは何か、死とは何かを見つめること。



時々顔をのぞかせる、その奥の響きを表したい…。
合唱曲の委嘱を受け、目下勉強しています。

吹奏楽で育った私にとっては未知の領域に近かったのですが、知ってみると合唱の世界とは本当に奥が深いものですね。


言葉の持つ力を音楽によって最大限に引き出す、いや、それ以上に引き出している作品には、思わず打ち震えるような感動を覚えてしまいます。


テキストを何度も読み返し、そこに溢れる情感を引き出せれば…そう思い、日々テキストを心で読んでいます。

若い作曲家たちによる現代音楽発表会を見る機会がありました。

最近、少し(本当に少し…)、現代音楽にも興味がわいてきまして、理解できる曲も多くなってきました。


有名音楽大学の作曲科を卒業した方々による作品を聴きました。
聴きにいったのはいいのですが、作曲のコンセプトが少々…。

「音楽を縦ではなく、横に割った断面を表現してみました」
「サクソフォーンの演奏の限界ギリギリの世界を表現してみました」
「人間の深層心理を深くえぐった作品です」



などなど、特殊奏法のオンパレードで、ちょっと理解のいかないものばかりで、(私はまだまだ未熟なんだな…)と思いました。


「芸術とりわけ音楽における形式の目的は、まず判り易さにある。楽想・展開・論理が把握できれば聴き手も満足でき開放感を感じられる。これは心理学的に言えば、美感と密接な関係をもっている。だから芸術的価値が判り易さを必要とするのは、知的満足だけでなく感情的満足のためである」

というシェーンベルクの言葉を借りれば、聴き手の私としては満足のいかない演奏会となりました。



「音楽は言葉で表現できない、また表現できるような音楽はすでに音楽としての価値を持たない」とは私の持論ですが、たとえば上記のような内容は、はたして音楽として表現すべきものであろうか?という一抹の疑問を持ちます。


「音楽が表すのは人間の感情や心理ではなく、具体的な出来事である」とはベートーヴェンの言葉ですが、シェーンベルクやベートーヴェンの音楽ははるかに具体的であり、聴き手を満足させるものではないでしょうか。
(”現代音楽=わけのわからない音楽”の代名詞のように言われている、シェーンベルクの創始した”十二音技法”も、実は極めてわかりやすく、具体的な作曲法です)



音楽における「わかりやすさ」や「具体性」とは、実は音楽の本質ではないでしょうか。


私の師はこうおっしゃいました。
「音楽において、音のみを使って作品の内容を伝えることのできない音楽はすべて失敗作だ」


そこには必然的に「わかりやすさ」や「具体化」というプロセスが必要となってくるのではないでしょうか。



「音素材をただ想像しながら創作するよりも、それに直に触れながら作曲するほうが、千倍も望ましい」


というストラヴィンスキーの言葉を広く解釈すると、作曲や編曲、指揮や評論などの音楽に携わる人も、常に”演奏”というものに携わっていなければならないと思います。



ティンパニのソロを作曲する時には、ティンパニに触れながら作曲する。

トランペットのファンファーレを作曲する時、その奏者の顔がいかに赤らむかを体験する。

合唱曲を委嘱された場合、その団体の演奏を生で聴いたり、一緒に歌ったりする。




つたない私でも、やはり作曲する時はなるべく直にその楽器なり、団体なりに触れるよう努めています。

その息遣い、指使い、演奏の緊張感や打ち震えるような喜び、和音の中に浸る温もり…。


やはり音に直に触れてこそ、音を作り出せるような気がします。



”辛辣な評論家”の攻撃に対する最も痛烈な反撃は「音に触れている」、「音で勝負できる」という”実際の音楽体験”ではないでしょうか。


音楽にこれ以上のものがあるでしょうか。


これ以上の作曲法があるでしょうか。